芥川賞受賞作、又吉直樹『火花』を読む。

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いろんなところで紹介されていて食傷気味ではあったのだけれど、やっぱり又吉だから買うことにし、やっぱり読んでよかったと思った。ほんの 200 万分の 1 に過ぎないのだが、いちおう書いておくことにする。

芸人が何かをすると決まってこんな騒ぎになる。ビートたけしが北野武として映画を撮り、賞を獲った時もそうだったし、島田紳助が報道番組の司会を始めた時だってそうだったし、劇団ひとりの書いた『陰日向に咲く』が本屋大賞にノミネートされた時だってそう。芸人が純文学の賞を獲るって、やっぱり格好の題材になるんだろう。

だが、皆、忘れていないだろうか。

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芸人はそもそも言葉の遣い手だ、っていうことを。その上で、それぞれに得意とするスキルがあって、たけしは映像表現、紳助は口頭表現(だけでなく企画やプロデュースも)、ひとりや又吉はテキストによる表現が秀でている。職業というラベル、いやレッテルで見るからおかしなことになる。

芸人というと、とかく口から生まれたように思わされるけれど、『火花』の主人公もそれを描いた又吉も喋りが滑らかという印象はない。にもかかわらず、飛び込んだ先は口先だけでは到底無理な、むしろ縦横無尽に言葉を操ることができる者こそが生き残っていく世界だ。その過酷さは作中で読んでいて苦しくなるほど描かれる。

もう一つ。芸人が芸人の世界を書いたのだから、という批評は当たらない。そもそも芸人は人間観察の能力が図抜けていないとならない。それは、たとえば放送開始から10年経った人気番組「人志松本のすべらない話」を見たって明らかだ。番組では、芸人たちがただただ、自分の持ちネタである話をしゃべるだけ。繰り出される話は、まずしっかりとした観察がないとならない。その上での表現なのだ。そのことも、皆、忘れていないだろうか。

主人公の徳永はスパークスというコンビで活動する若手芸人。その目線から先輩芸人である神谷に向けられた、羨望とも絶望とも、あるいは嫉妬ともとれるやりとりが一見、淡々と綴られていく。たとえばこんなふう。

発想の善し悪しが、日常から遠くへ飛ばした飛距離でもなく、受け手側が理解出来る場所に落とす技術でもなく、理屈抜きで純粋に面白い方を択べとする感覚的なものによるならば、僕は神谷さんに、永遠に追いつけない。

淡々とした語りは終盤で一転し、鮮やかに持っていかれた。読み始めから、なぜか夏目漱石の「こころ」を読んでいるようだった。嫉妬の対象と深く付き合う、といったあたりからかもしれない。念のために付け加えるが、今、巷で話題のあのロゴのような話ではない。時代も設定もお話もまるで違う。ただ、その嫉妬との距離感や向き合い方かもしれない。読んでいる間じゅう、ヒリヒリしていた。

それにしても、又吉は太宰好きで知られるが、その太宰が憧れて憧れた芥川の賞を受賞した。それもまたなんだか芸人のネタとしては最高だなあ、とお笑い好き文学好きの一人としては思うんである。あ、写真は Kindle 版の表紙ですからね。

参考)又吉直樹『火花』担当編集登場!「批判する人は純文学を読んでくれてるの?」

火花 (文春e-book)

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