『不実な美女か貞淑な醜女か』を読む

books通訳で名前を知られる人といえば、鳥飼久美子、戸田奈津子の両氏、そしてロシア語通訳として活躍された米原万里さんだろう。すでに鬼籍に入られた彼女の本を、最近、ようやく読むことができた。通訳・翻訳の世界の奥深さが鮮やかに書かれていて、ああ、ご本人にインタビューしてみたかった、と後悔するほどオモシロかった。

ロシア語通訳として活躍された米原さんだが、この本は決してロシア美女と醜女の話ではない。タイトルの種はこれから読む方のお楽しみにとっておくとして、本書には、通訳のなんたるかが、具体的かつ丁寧に、第一線の現場の様子が手に取るように描かれている。ご自身や関係者の失敗も含めた体験談が盛りだくさんだ。

 

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通訳と翻訳の違い、文化の訳しにくさ、日本語という言語の特色など、言語にまつわる話がメインだが、特に印象に残ったのは「方言まで訳すか、訛まで訳すか」の項だ。通訳の世界では「文体にまで手を出すべきではない、基本的には標準語に訳していくべきだ、というのが、通訳術の鉄則の一つになっている」のだそう。けれども、それでいいのだろうか、と米原さんは疑問を持つ。そして、1990 年のシェワルナーゼ外務大臣が辞任演説をした際に同時通訳をしたエピソードを紹介しながら、こう述べている。

——シェワルナーゼ氏はこのとき大変興奮していた。舌がもつれ、普段よりさらにロシア語の単語がなかなか出てこなかったりして、もどかしげで、いかにもグルジア訛り丸出しのロシア語の演説だった。そして、そのなかに、ロシアという大国に併合され、蹂躙され続けてきた誇り高いグルジアの小国の民族の悲哀がにじみ出ていた。
 ところが私のその時の訳では、それがすべて削り取られ、捨て去られてしまって伝わらない。そういうふうに通訳には、あくまでもあくまでも限界がある。そして通訳が切り落としてしまう情報のなかに、時々宝石のような貴重なメッセージが混じっていたりするものなのだ。

これは、何も通訳だけの話ではない。編集やライター稼業にもつながる。インタビューでも取材でも、何かを完璧に取りこぼしなくまとめることなんてできやしない。30分の取材で書けることなんてほんの少し。インタビューだって、相手の話したことをすべて掲載できるわけではない。あくまでもあくまでも一部分なのだ。通訳であろうと翻訳であろうと、編集者であろうとライターであろうと、誰かの何かを伝えることを仕事にする人間はほんの一部分に過ぎないことを肝に銘じておくことが必要だ。でも、だからこそ、何をどう伝えるか、情報をどう切り取るか、どんなふうにして伝えるか、誰よりも心を砕いておかねばならない、と思うんである。

 


 

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