義母の前で、泣いた。

義母の前で、泣いた。子どもみたいに。大哥と結婚して6年、もちろん初めてのことだった。

その日は義母の誕生日祝いだった。大哥の提案で、親戚が集まって外でご飯を食べることになった。わたしも一度だけ行ったことのある居酒屋さんで、テーブル数は少ないけれど、清潔で、出されるお料理のおいしいお店だった。

食事会は週末の夜になった。週末の午後は家族親戚で交代しながら義母の麻雀相手になるのが恒例だ。ひと口に午後といっても、早い時は1時くらいから、皆が興に乗って気がつくと夜10時になっていたりする。だから、平均的な会社員の平日の勤務時間くらい、下手したら残業までするくらいの時間になる。いつの間にか我が家では、それを「週末直班」、まあ、週末の勤務と呼ぶようになっていた。

このうちに嫁に来たばかりの頃、途方に暮れていた。語学学校で習った中国語は北京語で、清朝の時代に台湾にやってきて何代目かの義実家では台湾語(閩南語)が家庭内の使用言語だ。北京語と台湾語は、文法的にはほぼ似たような使われ方をしているものの、発音は似ても似つかない。わたしには家族が何を話しているのか、さっぱりわからないのだった。

言葉でコミュニケーションするのは無理だと考え、当時健在だった義父も含め、お相手としてカードゲームをやるようになった。3年前に義父が他界してから、カードは麻雀に変わった。義実家で手持ち無沙汰になるより、よっぽど楽だった。カードも麻雀も義実家で覚えた。

義母は、探究心の強い人だ。わたしが出会った頃に料理はすでに達人の領域にあったが、結婚するまで料理を作ったことはなかったという。その後、舌の肥えた義父の料理に対する要求の高さと、家族の健康を守るのだ、という使命感も手伝って、料理番組は彼女の教科書になった。

そこへやってきたのが台湾人ではない嫁である。嫁であるわたしは、結婚したばかりの頃、家族の誰一人として彼女を手伝わないでいる状態に、仰天した。お皿も運ばないし、食器も洗わない。できた料理は、作ってくれた義母を待たずに食べ始める——わたしの実家だったら、親父から怒りの鉄拳が飛んでくるわ、ってほどの違いに、軽くめまいまでした。

最初の頃は、義実家から帰ると、大哥に強く抗議した。どれほど作ってくれる人に対する冒涜と見えるかを説いた。あなたが言うわたしが実家で皿を洗うなんてのはやる、だけど、わたしだけが手伝うのはおかしい、とも訴えた。

わたしの最大の抗議ポイントは、一瞬たりとも手伝わないのに「今日の魚はくさい」だの「しょっぱい」だの「これは嫌い」だのと、料理を否定しかしない家族の姿だった。あまりの理不尽さに、義母と一緒に台所に立つことにした。…といっても、作り方を横目に見ながら洗い物をしたり、ニンニクを刻んだり、といった手伝いだけだけど。

そういった行動が効いたか効かぬかはわからぬうち、いつの間にか大哥の口から否定の言葉は聞かれなくなった。義弟の料理への表現は少しだけ柔らかくなった。義弟に彼女ができてからは、時折、ふたりが料理を手伝うようにもなっていた。

そういう中でやってきた、今年の義母の誕生日を祝う食事会の席だった。

従姉妹の夫が「おばさん、親孝行の子どもたちでいいですね」と言った。横に座っていた義母が、ビールコップをかざしながら返した。

「子どもたちだけじゃないよ。大哥にはいい嫁が来てくれたし、小哥の彼女もいい子だし…」

気がついたら、涙があふれていた。テーブルについている家族たちは、びっくりした顔でこちらを見ている。何本かビールを開けた後だったのも手伝っていたのだろう、制御できなかった。

その場にいた誰にも伝わってなかっただろうけれど、驚いたのはわたしの方だ。何しろ、義母から手放しで肯定されたのは初めてだった。不意打ちのようにして出された自発的な言葉が、全面的な肯定だったことに、心底驚いていた。

食事が終わって義母をタクシーに載せる時に、義母はわたしを抱き寄せて「謝謝妳」と言った。また泣きそうになった。

台湾の国際結婚カップルのうち、離婚率が最も高いのは日台カップルだという。少し前の数字だけど、2011年で台湾の平均離婚率が2.84%、このうち日台カップルの離婚率は15.3%という報告がある。これまで人伝いに離婚した日本人の話も何例か耳にした。

結婚生活は、価値観がぶつかりあう日常を過ごす。両者の価値観をすり合わせていく時に、「わかる(はず)」が前提になるのはきっと相手を苦しめることになる。日本人と結婚したことはないから何もいえないが、異文化で育った相手と結婚して思うのは、社会の価値観をそのままぶつけられない相手だという、別の前提が横たわることだ。これが嫁という立場の盾になった。

ただ、義母はこれまで、一度たりともわたしに「嫁なんだから」「〜すべき」的な物言いをしたことがない。それは子どもたちにも受け継がれていて、わたしは大哥に「妻なんだから」「こうすべき」的な物言いをされたこともなかった。むしろ、べき論をかざすのはわたしのほうだった。

親の影響を感じずにいられなかった。わたしが小学校の頃、通信簿をもらう日は憂鬱で仕方なかった。決まってネチネチと小言を言われるからだ。あれから何十年も経つのに、今でもその時の光景がありありと浮かぶ自分も嫌でたまらない。ともかく「お前なんか」と常に否定されてきたから、手放しで親に褒められることに慣れてないのだった。

承認欲求? かもしれない。きっとそうなのだろう。なんの条件もつけずに肯定されたことが、なによりもうれしかった。そういう思考に陥るほどに、渇望していたのだと気づかされた。

大哥以外の人前で声を上げて泣いたのは、いつ以来だろう。でも、義母の前で泣いた日のことは、覚えておきたい。そう思って書き残すことにした。台湾でだって嫁姑戦争はよくある話だ。希少かもしれないけど、こんな例もある、と思ってもらえたらうれしい。

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