徳力基彦著『「普通」の人のためのSNSの教科書』でSNSへの色眼鏡が外れた話。

思うところあって、7月の終わりにTwitterを再開した。覚悟していたことだったけれど、戸惑うことも多く、まごまごしていた。そのタイミングで、ブックライター塾同期の横山瑠美さんの手掛けた本のタイトルが『「普通」の人のためのSNSの教科書』と知った。(これは今、まさにわたしが読まなきゃいけない1冊だ)、そう思ってKindle版を即日購入した。すると、当日にオンラインで刊行イベントもあるではないか!即決で参加した。

新刊のイベントはたいてい書店を会場に行われてきた。だから、台湾に住むわたしにとって、まず参加が不可能なイベントでしかなかった。コロナ前なら、開催に合わせて帰国する、くらいな大事である。ところがオンラインという新たな道ができた。これなら台湾だけではなく、世界中から参加できる。

海外にいる身として、こんな有り難いことはないなあと思いながら、徳力さんと普通というよりは「元普通」の皆さんのお話を伺って、SNSがもたらしたコミュニケーションの広がりに引き込まれていた。

まず、徳力さんによるSNSの定義にはブログも含まれることが説明された。ご自身が、15年前にブログを書いたことによって、周囲とは別の人とつながる道ができ、その道が階段を上るようにして開けていった強烈な体験を持つ。その、いわば「普通」から抜け出るような強烈な経験をもとにした、SNSとの向き合い方についての話は、わたしの目に貼り付いていた鱗を一気に剥がしてくれた。何枚も落ちた鱗の一部は以下の通り。

  • SNSをリアルの延長ととらえること
  • SNSをコミュニケーションツールととらえること
  • 発信は自分のためのメモと思うこと
  • フォロワー数やいいねの数に振り回されないこと

いつの間にか、ネット上の世界は完全なる異世界と考えてしまっていたことに気づかされた。異世界だから、リアルとは違うコミュニケーションをしなきゃいけないんだ、と。それこそが、大きな間違いだった。リアルもバーチャルも、言ってしまえば人のつくった世界だ。異世界ではなく、地続きなのだ、と。

人が放つ言葉の威力が思いのほか鋭くなるのは、生身の相手を目の前にしないからだ。だけど、その状況から放たれる言葉を、悪意に満ちたものと決めつけ、怖がって外に出ないのではなく、安全に気をつけながら外に出る、外の世界にはリアルとは違った出会い方がある、そのコミュニケーションをしないなんてもったいない!——そんなエールの込められた、一歩を踏み出す方法が示された。

イベントの間中、本書の原稿を手掛けた横山瑠美さんは、Twitter上でまとめをツイートしていた。その当意即妙なツイートにも感動しきりだった。

イベントが終わり、一気に本を読み終えると、SNSに対する色眼鏡が外れて、視界が開けたような感覚になった。

書籍、オンラインによるイベント、Twitterでの振り返り…それらがほどよくミックスされて、そのどれもが、コミュニケーションの一環なのだと教えられた。

職業ライターをしている関係上、どうしても「本」は特別な場所に置いてしまう。そこから「文を書く」、その文を「人前にさらす」行為に、自らハードルをあげてしまいがちだ。だけど、本来、何のために書くのか、根本には気づきや感動を外部化する行為そのものにある。自らの経験が、目の前の相手には無用でも、もしかしたら世界のどこかにいる誰かの役に立つかもしれない。その文章がどうかはいったん脇に置いたっていい、と思うことができた。仕事の文章は、やっぱりまた別物であるからして。

リアルであろうとSNSであろうと「田中美帆」といういたって普通の、一人の人間にすぎない。それ以上でも以下でもない。飾ろうとしたって土台、無理だしなあ、とひとりごちた。

もうちょっと本の中身を紹介するものなのかもしれないけれど、それはまあ、誰かがやるのだろうから、読み終えたばかりの勢いもかねて、ここで終えることにする。そして、気持ち新たに、SNSを通じたコミュニケーションを楽しんでいくつもりだ。言葉はすべてコミュニケーションをめざす、その地平をわたしも見てみたいから。

ちなみに。
新しく開設したTwitterアカウントはこちらです。ブログは思考の整理が中心なので割と長めですが、Twitterはコンパクトメモです。Twitterと同時にnoteも始めました。こちらでは、わが家の子猫ストーリーから始まった台湾の猫ワールドへの旅を書いてます。もしも気が向いたらのぞいてみてください。そして、さらに気が向いたら、おしゃべりできればうれしいです。

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