誤解と理解のあいだ

learn台湾に留学してからこっち、ずっと感じていることがある。それは、わからないのはなんだかラクだ、ということ。わからなくてもいい、許されている。それが心地いい。結局、一人では生きられず、人のあいだにいて、大勢の人たちにお世話になっているのだ。日本語の世界にいた時は、誰が何を言っていて、どんな関係性の上にあるどんな立場で、その裏にはどんな意図を持っていて…と回さなくていいようないろんな気をほうぼうに回し、ずっと緊張の糸を張っていた。それが、ごっそり要らなくなった感じ。いや、要るんだけど、荷物がずいぶん軽いのだ。あの荷物はなんだったのだろう。

大哥と付き合い始めたとき、電話をするのが怖かった。電話しても何を言っているか聴き取れず、間違えたらどうしよう、と思っていたから、何度かかってきても、取らなかった。いや、取ることができなかった。なぜって、間違えるのが怖かったんだ。

 

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いつだったか、台湾人男性と結婚して10年以上になる友人と話していたら、彼女が「昨日も誤解でけんかになっちゃってさー」と言う。名誉のために付け加えておくけれど、彼女はリアルタイム通訳だってできる、中国語力の持ち主。大哥でさえ「彼女の中国語力はすごく正確で素晴らしい」と。その彼女が誤解!?と驚いて「え! そんなに中国語うまいのに、誤解なんてあるんだ!?」と訊いたら「あるよー。しょっちゅう」という答えが返ってきた。

つい昨日のこと。大哥と仕事帰りに待ち合わせて帰ることになった。待ち合わせ場所に着いたが、10分経っても来る気配がない。電話したら「着く前に電話してって言ったよ」とのたもうている。「ああ、そうだったんだ。じゃ、もう着いてるからね」と言ってまた待つ。このやり取り、実はしょっちゅうある。日本語だけの世界しか持ってなかった頃なら、こういう時に「だってナントカって言ったじゃない!」と相手を責めていたかもしれない。実際そういうけんかになったこともある。でも、そのたびに思う。正確な理解って、どこにあるんだろう、と。

 

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ずっと、言葉を、何かを間違えると途端にすべてが崩れる、そんな気がしていた。でもいまは違う。言葉なんて、誰だっていつだって間違えるものだし、そもそも間違えるものだ。誤解は多々あるのだけれど、間違えたら全部崩れるって、どうしてそんなふうに考えていたのだろう。間違えたら、やり直すなり、違う方法にするなり、丸めてぽいしたっていい。

いつまで経ってもわからないことはある。理解にはいつまで経ってもたどり着けない。それなのに、正確な理解を相手にも自分にも、きつくきつく求めていたのかもしれない。ありもしない理想郷をあるようにしなきゃいけないのって、すごく疲れる。言葉も大切にしながら、言葉に寄りかかりすぎないように、言葉だけに振り回されないように、目の前の相手を、誰かを大切にするほうを選ぶ。

それに、誤解が起きた時に、どっちが正しかったかとか、どっちが間違えたかとか、原因だとかは、実はどうでもよい。大事なのは、起きてしまったことをあれこれ分析することではなく、その誤解から出発すること。そして、どうやって前を向いて歩いていくか。もっと、前を向く知恵を身につけていきたい。

 


 

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