恋人ができると語学が上達する理由

flower「好きこそ物の上手なれ」とはよく言ったものだ。確かに好きなことなら、誰に頼まれなくても続けられる。だからまたよい方向に向かう、というループができる。続けるうちに、工夫ができるようになったり、さまざまな試行錯誤を繰り返すからだろう。同じように、料理がうまくなるには場数を踏むことだ、というけれど、それもやっぱり、練習が大事だということだろう。語学では、対象言語の彼氏や彼女ができると語学が上達する、と聞いていた。自己検証しつつ、その理由を自分なりに掘り下げてみた。

 

スポンサーリンク


 

相手がいる

あたりまえじゃん、と思われるかもしれないけれど、この相手がいる、ということの意味をもうちょっと掘り下げてみよう。教材や授業とまず違うのは、先の料理の例でいうところの場が生まれること。相手がいるから、読む書く聞く話すをフル活用しなければならない。話す聞くは直接対面ってのはもちろん、電話だってあるし、読む書くは昔なら手紙、今ならLINEやFacebookなどなど。でも、そうしたツールがどうこうじゃなくて、発したその一言を共有する相手が目の前にいる、その先にいる、というのが大事なんじゃないかと思うのだ。独り言ではない、発すれば返ってくる、その関係がまた次の言葉を育てる。

先が読めない

授業でも教材でも、何度も繰り返し聞くと覚えてしまう。それはそれで大切なことなのだけれど、答えがわかっちゃうのって、少なくともあとだしジャンケンみたいでオモシロくない。次にどんな反応するだろうとドキドキしながら聞いたり話したりするのって、案外くっきりしたモチベーションだ。さらに(え?こんな反応する?)と思うからこそ、「いま、どうしてそんなふうに言ったの?」「それってどういう意味?」と自分の考えとのずれを確認する行為が発生する。それは、自分のコントロールできないことだからこそ、起きる。先の読めなさもまた、次の言葉を産む。

指摘される

中国語の捲舌音(けんぜつおん)、たとえば「zhi,chi,shi,r」は発音のうちでも日本人が手こずる類いの音だ。だから教科書のいちばん最初に出てくる「日本人(Rìběnrén)」の発音を何度も繰り返し直される→発音が難しいという印象を強化する→挫折する、というループが起きやすい。わたしはいまでも「日本人(Lìběnrén)」と発音することがあって、そのたびに「日本人(Rìběnrén)!」と直される。程度問題とはいえ、周囲が指摘しなくなる、それは化石化を生みやすい。誰だって案外「その発音おかしいよ」とは言いにくいものだ。だからこそ、フィードバックを受けられるというのは大事なのだ。まあ、たびたび話の腰を折られるとけんかになるけどもね。

言語は、言葉は、文脈なりコンテキストなり、コンテンツなり、いろんなものにおおわれている。だけど、圧倒的に言葉にはあいだが必要で、あいだがないと生まれない。相手がいるからこそ、場が生まれ、次が繰り出され、アチコチにぶつかりながらも、言葉がつむがれていく。それなら、友達でもいいじゃないか、となりそうだけれど、より全力でぶつかることを余儀なくされる、だからこそまた言葉が育つんじゃないか。

 

 

スポンサーリンク


 

Post Navigation