海外で暮らしていると日本語を喪失していく理由について。

150505

台湾に暮らし始めて 1 年半が経った。毎日、日本語のサイトをサーフし、こうして毎日記事をアップする以外、生活のほとんどが中国語という時間を過ごしている。仕事で使うのも多くは中国語で、1 日のうち日本語に接する時間のほうが断然に短い。

近頃、ひしひしと感じていることがある。それは、自分の日本語力が落ちている、ということ。たとえば、ふとした時に単語が出てこない。年齢のせいにもできそうだけれど、どうやらそれだけではない。(あれ、なんだっけ?)と思う率がだんだんと高くなっている気がする。圧倒的に日本語と接する時間が短くなり、頭の中を中国語が占拠してきて、日本語がぽろぽろとこぼれ落ちているかのようだ。

先月の一時帰国では、こんなことがあった。

 

スポンサーリンク


 

台湾の家族の話していることを日本の家族に向けて訳そうとして、口から出ててきたのは中国語だった。単に切り替えがうまくいかなかっただけだと思いつつも、なんだかショックだった。

もう時効だから告白する。昔、雑誌の編集部にいた頃、海外に暮らす大先生から受け取った原稿があまりに読みづらく、部内で話題になったことがある。すると、当時の編集長が言った。「海外の先生にはよくあることだよ。これは現地の言い回しをそのまま日本語にしている感じだね」。その時、あろうことか(いやいや、これで日本語教えてるって…)と思ったのだった。すみません。

自分が二言語の世界に飛び込んではじめて、思っていたよりもずっと言語の足場は脆いのだと気づいた。

臨界期という言葉がある。言語習得の分野ではよく知られた言葉だ。たとえば、日本で暮らしていた子どもが親の都合などで海外に移動する。すると、その移動した時の年齢、特に 10 歳前後を「臨界期」とし、軸になる言葉が定まらずにその後の言語獲得に大きな影響を与える、とされている。

人がものを考える時、どうしたって言語が必要になる。ものの名前、概念、思考、すべてに言語はかかわる。その時に何語で考えるか。考えるための言語を持つことは、人の成長において大切なことだ。だがそれは、何も子どもだけに限った話ではなく、大人が考えるのにだって大きく影響する。

成長にあわせて獲得してきた言語が日本語なのだが、海外に暮らして別の言語を獲得することによって、それまで持っていた言葉の足場は簡単に崩れるものだと身を以て知った。別の見方をすれば、新しい言語が獲得できている、ということでもあるのだけれど。

何かを得れば何かを失うとはこのことなのだろうか。

もしかしたら、言語を獲得したといっても、常に同じ内容を、中身を、キープしているわけではなくて、中身は常に入れ替わっているのではないだろうか。言語を固定的ではなく、流動的なものとして考える。そうすると、居場所が変わって言語環境が変わり、入れ替わりのルールが変わり、内容が変わるわけで。ならば、ふっと次の語が出てこなくなるのなんて、当たり前じゃないか。海外暮らしで日本語力が落ちるのは、どうしたって抗えないわけだ。

海外で暮らしている方々は日本語をどうやってキープしているんだろうか。あるいは、気にしないって手もありそうだけれど。これからは、中国語の獲得だけでなく、日本語の維持のことも視野に入れることにする。

 


 

スポンサーリンク


 

Post Navigation