練習への視点

shu留学して授業を受ける前から、あきらめていたことがある。それは、どうしたって授業のやり方が気になるだろうな、ってこと。仕事柄、こればっかりは気になっても仕方がないと覚悟はしていた、の、だけれども。

ある日のこと。補語の一つである看起來、つまりは見た目にそう思わせる、を表す用法が取り上げられた。先生が出した一例は、友達がケーキを作ってきた。食べたらおいしくない。こういう時言うよね、って場面設定で、こう言った。

看起來,不好吃(おいしくなさそう)

仰天して思わず「先生、相手にそれを言うのは失礼じゃないでしょうか」と疑問を呈してみたところ「練習だからいいのよ」とサラリと言うではないか。いやいやいや、そんな無礼な練習なんぞ、要らんわ!という心の声なぞ届くわけもなし。でも…言えたらこう言いたかった。

ーーわたしは練習ならどんな表現でもいいとは思えないんです。わたしがその表現を使った相手との関係が悪化するかもしれないですよね。練習、口に出して言うことは、少なくともわたしにとっては、たとえ1回でも大事にしたいんです。導入される状況設定は、いわば「こう言う」って代表例なのに、それがまさか「言っちゃいけない」って、学習者であるわたしたちは知りようがありません。無礼を働いたあとでは遅いんです。せめて「レストランで出されたメニューの写真が悪かった」とかいう設定にするとか「料理を作ってくれた人の前では言わないようにね」ってフォローするとか、言える相手が限定される、という説明は必要だと思うのですが。

…と、先生の一言にモヤモヤしてたら、クラスメイトが「じゃ、実際においしくなさそうなケーキを出された時にはなんて言うんですか」と先生に訊ねてくれた。

そうなのだ。形だけ練習したいわけじゃない。文法だけを学べばいいってもんでもない。習った表現を、適切な場面でタイミングよく使えるようになりたい。覚えにくい表現とか、使いにくい表現を学ばなきゃいけないことがあるのもわかっている。だけど、何度も口に出して、書いて、聞いて……そうやって苦労して覚えた表現が実は無礼だっただなんて、考えただけでがっかりする。その表現を、いつ、どんな人に、どんなタイミングで言うか。もっと丁寧に扱ってほしいと思うのは、学習者の贅沢な要求だろうか。

目には見えないかもしれないけれど、何しろ授業を受けるほうは必死なのだ。先生の説明に耳をそばだて、一生懸命聞いている。例文一つ、宿題一つやるにも時間がかかる。クラスメイトには、バイトしてお金貯めて台湾まで来た人や、いつか仕事で使えるようになりたいからと授業後にも質問している人、漢字が苦手で1文書くのにもすごく苦労している人、一生懸命言われてもいない練習を重ねている人、以前留学した北京といま学んでいる台湾の違いに試行錯誤を重ねている人、いろんな人の、その人なりの努力があって授業を受けているわけで。

あ、断っておくけれど、担当の先生は回転も早いし、説明はとてもわかりやすいし、その人に合った質問を投げかけてくれる。練習量も豊富で、板書も工夫が見える。学内での評判もすこぶるいい。わたしが言うのもなんだけど、教え方のスキルはかなり高い人だ。だからこそ、そういう反応にがっかりしてしまう。

その先生一人のことを批判しているのでは決してない。「練習だから」という答えは、おそらく彼女だけの発想ではない。なぜって、教科書にだっておかしげな例文は出てくる。東洋と西洋の違い、親の教育など、ステレオタイプを強化する例文があちこちにある。「そんなの、一概に言えないよ」ってしか答えられないタスクも多い。

もっといえば、その例文を言うか言わないかを問題にしているのでもない。限られた特定の場面でなら使える表現だ、という説明が必要だ、ということ。つまりね、文型さえ合っていえればあとはいい、という、その立ち位置がたまらなくいやなのだ。

例文だから適当でいいんだよ、距離は自分で測ればいいじゃん、って考えもありだと思う。ただねえ…それって、ことばに失礼じゃない? そんな適当なことに使われるためにあるんじゃない。どんな語だって、必要だから生まれて、それぞれに固有の意味を持っているわけで。人の名前が違うのと一緒じゃないのかなあ。にもかかわらず、その語のレーゾンデートルである肝心の中身が置き去りにされ、習ったあとのことを想像していない、その姿勢に疑問を感じてしまうのだ。だって、学習者は、その練習の積み重ねを経て、自分で文を作るようになるんだから。例文も含めて練習する一つ一つの文こそが、今後の大いなる手がかりだから。逆に言うと、その例文しか、手がかりはないのだから。

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