台湾の味付けから見えてくる日本の味覚の姿

mianxian

留学時代、ホームステイしていた先での食事はすべて別だった。借りた部屋と同じフロアにキッチンがあり、調理器具も食器も自由に使っていい、という取り決めだった。ただ、そのキッチンは当然のことながら大家さんも使う。だから普段は大家さんの調理時間とぶつからないように、午後の授業の前に買い物して自分の食事の準備をしていた。

滞在中、何度か食事のお相伴にあずかったことがある。数としては多くはなかったけれど、それは貴重な体験だった。大家さんの料理は、一家の健康と好き嫌いにもきちんと配慮のなされた、色とりどりの品が並ぶ、素敵なものだった。準備された料理はその日と翌日のお弁当として消えていき、残る、あるいは保管しておくということがない。

いただいてみて驚いたのは、その味付けだった。

 

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薄いのである。「どう?」と聞かれても答えようがないくらいに。逆に、わたしの作ったものを大家さんたちが口にすることもあった。自分としてはそれなりに申し分ないものを出したつもりだったが、大家さんが言ったのは「しょっぱいわね」だった。日本でも比較的塩分控えめで料理していると思っていただけに、ちょっとショックを受けたのだった。

その後、大哥と結婚することになり、実家で義母の料理をいただいた。とりわけ料理好きな義母は毎週末、わたしたちの分も含めた料理を作り、わたしたちの務めはそれをいただくこと。なんとも有り難い習慣ができた。毎週末にいただく義母の料理は、だんだんと楽しみになっていった。

台湾に渡ってから1年ほど経ち、大哥を連れて帰国した時のことだった。

(えっ、ここって、こんなしょっぱかったっけ?

それまで何も感じてなかった日本のレストランの味付けに、初めて違和感をもったのだった。むしろ美味しいと思っていた場所に足を運んだはずなのに、そう思えなくなっていたことにまたショックを受けた(こういうのもリエントリーショックの一種だ、きっと)。

思い出したのは日本にやってくる留学生の多くが日本の料理を「しょっぱい」と言う、という先生たちから聞いた話だった。なるほど、こういう感覚だったのかと初めて合点がいった。よく「素材の味を生かした」とか「薄味」とか言われるけれど、実はそれ、日本人の間でだけ通用する味覚なのかもしれない。たとえばアメリカのチョコレートを食べて「甘すぎる」とは思ってもなかなか美味しいと思えないのと同じように。

味覚というものは、食生活の習慣で形づくられていく。「おふくろの味」が旨いのは、日々の習慣に基づいた感覚だろう。だからこそ、習慣が変わらないと基準も動くことがない。その習慣を動かすのはなかなか難儀なことだ。

とはいえ、そのうちに自分が料理するときも、ほとんど塩を使わなくなっていた。使ってもごくごくわずか。以前よりもぐっと減っている。身体にはいいことなのだけれど、日本から離れたのだという気がして、なんだか寂しくも思うんである。

ちなみに写真は、この週末にいただいた義母の「蚵仔麵線」。「台湾小吃を代表する料理よ」と義母。おいしゅうございました。

 


 

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