1年弱、通いながら考えた「養生」の意味と目的と人生の関係について。

Jpeg

台湾に来てから、ほぼ月に一度、風邪を引いていた。熱は38度超えのフラフラモードで、水を飲んでしのぐくらいしかできず、体力がどんどんと落ちている気がしていた。大哥と結婚してしばらくした頃、義妹に「気功やってみない?」と誘われた。「風邪引かなくなったんだよね」と彼女が言う。

そのひと言に促されて年明けから通い始めたのは、白雁自主健康管理學という気功の講座だ。中国で 1000 年以上前から伝わってきたとされる気功には、さまざまな流派があるらしい。ここは台湾だけでなく、マレーシアや香港でも折に触れてクラスが開かれ、かなり手広い。

義妹に付き添ってもらった初回は、語学力の問題もあって、よくわからないままに身体を動かしていた。途中から「付き添い」と称して大哥を連れて行った。半年以上経過し、今や、彼のほうがハマっている。彼は通ううちに、バキバキに硬かった肩と背中がほぐれ、首回りについていた余計な肉もとれていった。胴回りは見違えるほどで、体重も少し落ちた。身体がしっかり答えてくれたのだ。

対するわたしは、通い始めてから風邪将軍がトンと来なくなった。半年経つと、座って足を組むクセも止めてしまった。体重は変化はないけれど、腰回りのぜい肉は少しずつ落ちている。身体が整ってきた、という感覚が強い。

やったことといえば、教わった一連の動作を、週に 4、5 日、10 分〜 1 時間こなすだけだ。動作はゆっくりだけれど、身体のあちこちに効くように作られているのがわかる。夏場は、2 人してびっくりするくらい大汗をかいた。

最初はまったくの好奇心で始めたことだったのだけれど、通ううちに「養生ってなんだろう?」と考えるようになった。翁のいう養生が大切だということはわかるのだけれど、なんともストンと落ちないでいた。

前回の記事で『養生訓』と近頃のダイエット系記事との根本的な違いについて書いた。巷にあふれるダイエットもトレーニングも、どうして体重を落としたり、身体を鍛える必要があるのか、まずなんのためにそれが必要なのか、という根拠が見えてこない。

話が飛ぶようだが、日本の国家予算のうち、年々増加しているのは医療費だということはよく知られている。中でも多いのは、「生活習慣病」と呼ばれるガンや脳卒中、心臓病などの三大病。父方母方問わず親戚の間や、友人の親世代で、これらの病にかかった、という声が増えてきた。

不惑を過ぎた自分にとって、こうした病気を意識しなければならない年齢になったことをはっきり感じたのは、雨上がり決死隊の宮迫さんがガンになった時だ。3つ上の彼がガンを公表し、闘病後にテレビ復帰した姿に、ドキリとした団塊ジュニアは多いのではないだろうか。ことに最近は美魔女だの、なんだのと、見た目の若さがもてはやされているけれど、正直、10 年ぽっちでヒト科ヒトの身体の衰えまでなくなるとは考えにくい。

20 代なら、カッコいい体づくりやらモデルみたいな身体を目指す、という目的でもいいのかもしれない。ただ、今の自分には、身体を変えることはもはや目的ではなくなっている。単に痩せる、鍛えるという目的から卒業する年代なのだ、と考えるようになった。これから続く海外生活で大きな病気をすることなく、健康に過ごす身体にする、そのために運動する。これを身体を動かす目的にしよう、と。

こう考えるようになったのは、講師陣の話だ。彼らが口々に言うのは「病院で管につながれて迎える 80 歳なんて長寿とは言えない」「年を取っても、行きたいところに行き、身の回りのことは自分でこなせる身体を作ろう」「そのために、今から 10 分でも 20 分でもちゃんと自分の身体に向き合う時間を持とう」ということだった。

歳をとってからの医療費を心配するくらいなら、今のうちから予防として身体を動かすほうがよほどいい。もちろん、気をつけたからって 100 %はないけれど、身体を動かすことの大切さは翁が説いた通り。疑問を持ってやらずに病気になって後悔するくらいなら、とりあえず今できることをやっておこう。医療費の心配はそれからだ。

それにしても「養生」という語はどこか意味がつかみにくい。病後の安静のことを想像してしまうからだろうか。この 1 年弱、気功の教室に通いながら、「養生」と言われるたびに、どう解釈すればいいか考えていた。で、これまで通ってきた話をひっくるめ、大病することなく歳をとるための体づくり、という目的を据え、勝手に「予防」と解釈することにした。

こんなふうに身体と向き合うのはつまり、自分と向き合うことでもある。自分の人生を粗末にしない、そのための一歩でもある。

Post Navigation