楊雅喆監督の新作映画《血觀音》に観る母娘という闇。

「女兄弟がいるんですけど、母親とどうしてこじれるのか、ずっと理解できずにいたんです。嫁姑問題もそうですけど、母と娘の関係ってなんか難しそう。その原因がなんなのか知りたいという気持ちから、今回の作品は始まりました」

試写会の後でこう語ったのは、2012 年の台北映画アワード「台北電影節」、秋の台湾映画アワード「金馬奨」の各賞を総なめにした《女朋友。男朋友》(邦題:GF*BF)の楊雅喆監督だ。製作にあたり、関連の書籍を読むのはもちろん、精神科医への取材も重ねたという。

会場となったのは、鴻海の建てた〝三創〟ビルにある映画館だった。100 席という決して広くない館内で試写を待つのは全員が女性。「スタッフ以外に初めて見せる」とセッティングされた試写の場は、奇妙な趣向が凝らされていた。

数日前、友人から「こんなのあるけど」という誘いによって知らされたのは「台湾映画の女性限定試写会」という情報だけ。当初はタイトル、監督、会場さえも伝えられないまま、観客は口コミとネット抽選で集められた。隣に座った女性も、ネットで知って抽選に応募したという。好奇心って、すごい。

さて予告が流れ、宣伝担当者によって簡単な流れがアナウンスがあった。そこで楊監督の作品だとわかった瞬間に(こりゃ、一筋縄じゃいかないだろうなあ)と覚悟したが、案の定、だった。

タイトルは《血觀音》という。観音様といえばお優しい女神というほのかなイメージは、情け容赦なく吹き飛ばされてしまった。

あえて言うなら(つまり私の理解は、という意味でもあるのだけど)、90 年代台湾を下敷きに、母娘 3 代を軸に巻き起こる社会派サスペンス。母と娘というだけでない登場人物の人間関係、張り巡らされた伏線、台湾もつ多民族という社会背景が複雑に絡み合いながら、ストーリーは展開していく。2 時間ほどの間に見せつけられるのは、女の持つ恐ろしさ、凄まじいまでの毒だ。時折、台湾の人間国宝・楊秀卿さんが月琴を奏でながら場回しとして現れるのだが、その登場は、奈落の底でする息継ぎのように絶妙だった。

改めて冒頭の楊監督の話を、日本の文脈に落としてみよう。

数年ほど前から「毒親」なるワードが広まっている。メモを辿ってみると、私がこの語を知ったのは 2011 年のこと。アメリカのセラピスト、スーザン・フォワードが 1989 年に書いた『毒になる親 一生苦しむ子供』だった。日本では 2001 年に翻訳出版され、今なおロングセラーとして刷りを重ねている。本書で定義される親の〝毒〟の種類は、体罰に限らず、ネグレクト(育児放棄)、アル中、性的虐待、ことばによる虐待が含まれ、虐待という語は意味する範囲は存外に広い。本書のエピローグにはこんな一節がある。

「毒になる親」に育てられた子供は、愛情とは何なのか、人を愛したり愛されたりするというのはどういう気持ちになることなのか、ということについてよくわからず、混乱したまま成長する。その理由は、彼らは親から、〝愛情〟の名のもとに〝愛情とは正反対のこと〟をされてきたからなのだ。(本書より)

特に母と娘の関係は、2008 年の心理カウンセラーの信田さよ子さんが書いた『母が重くてたまらない』をもち出すまでもなく、2012 年のコミックエッセイ『母がしんどい』(田房永子著)だって話題を呼んだし、2017 年の NHK ドラマ『母さん、娘をやめていいですか』のヒットも記憶に新しい。

親子という関係に、悩み、傷つき、考え、どう向き合えばいいのか、もがく。「親孝行」という社会規範が出自となってもたらされる、友人、恋人とのコミュニケーションの破綻に、誰もが気づき始めている。だが、長い間絡め取られた思考から抜け出ることは、容易ではない。

主役となった母と娘の描き方は、あるいは極端かもしれない。だが、その大きな問いの立て方こそが、観る人をゆさぶる。そうか、台湾も日本も、同じ問題を抱えてるんだなあ、というのがシンプルな感想だった。開場前に監督がスタッフの方と話しながら「え、今日の試写にリップンラン(日本人)も来てるの? なんで?」と驚いているのを耳にしながら(え、抽選に当たったから)とこっそり答えていた。監督が描いたのは台湾だったかもしれないけど、やっぱコレ人類共通の課題、だよなあ。

もう一つ言えるのは、観終わったら誰かと話したくなる映画だ、ということ。作品は、2017 年の金馬奨のオープニング作品で、11 月 24 日から一般公開が予定されている。もう一度、観よう、そう思いながら会場を後にした。

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